在线求助日语翻译,讲一段不到千字的汉语翻译成日文,要求无语法错误。很急,基本无专业术语
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发布时间:2022-05-07 22:50
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时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
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三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
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这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
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我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
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与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
热心网友
时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
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时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
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时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
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不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
热心网友
时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
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这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
热心网友
时间:2023-12-10 18:41
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
热心网友
时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。
热心网友
时间:2023-11-18 17:43
这是一篇发表在《人民中国》的货真价实的文章,都是报社的原文和译文。(字数一千多点,你可以自己删减一点)。一定要再加分啊!!呵呵。
三种方式“感知”日本
表弟每每从日本打来电话,说起日本时,总说不仅仅是物质生活好,日本人也不错。记得当初他去日本前,因为历史问题等原因,他和我一样,对日本怀有一种敌意。可是现在,他的心态已经改变了,他把现在的日本与当年的军国主义日本区别对待了。可一直留在国内的我仍没什么改变。
我是一名居住在沈阳乡村的残疾人,9岁患类风湿病,18岁瘫痪。2006年,辽宁省作家协会联络沈阳*给我进行了免费的人工双髋关节置换救助治疗,使我恢复了部分行走能力。我基本上没出过远门,没离开过我所在的乡村。那么,我心中的日本是什么样的呢?
我通过三种方式“感知”日本。首先是历史,是从甲午海战到抗日战争胜利这长达半个世纪里日本对中国的侵略历史。沈阳是“九一八”蒙辱之地,日本侵略者曾在我们这块土地上疯狂地施放细菌武器。我们村里就有多人死于霍乱,我做郎中的外祖父和我的多位族人都是受害者。其次,是文学作品,从世界上第一*篇小说《源氏物语》,到芥川龙之介的《罗生门》、小林多喜二的《蟹工船》、川端康成的《雪国》,再到当代影视《追捕》、《人证》、《排球女将》、《血疑》、《聪明的一休》等。第三种了解日本的方式,就是在我们生活中无处不见的日本电器和汽车等,以及通过媒体看到的日本右翼势力的所作所为。从这三种渠道,我得到的日本印象是:日本的国花樱花是美丽的,这是一个爱美的民族;日本的产品是精致的,这是一个爱学习、向上的民族;日本人是细腻的,这是一个国民素质普遍较高的民族。我喜欢日本文学,但我不喜欢日本*的右翼倾向:战争历史是我们身上的一块疤,是日本右翼一次次触痛我们。
与中国文化有亲缘关系的日本,在我心中是一个复杂的存在。
我们村里就有日本侵略者留下来的遗孤,我表弟媳妇的奶奶就是,正是因为这层关系,表弟才去了日本。他断断续续给我们反馈回来的信息是:日本并不完全是我们在国内想象的那样,当年鉴真东渡和阿倍仲麻吕遣唐时结下的情谊,在现在的日本仍在延续。表弟曾跟我说过一件事:他做义工去护理一位日本老人,离开时,那位日本老人拉着他的手失声而泣,说他年轻时当过海军,亲手杀过中国人,现在中国人还来照顾他,他深表*之心。这令我很感动。
不过表弟也说,在他和日本青年的交往中也发现,日本青年人确实不太了解军国主义侵略历史的*。在日本的教科书中,或者是歪曲历史,或者是不提那段历史。
最初表弟说日本这好那好时,我还跟他开玩笑说:去日本才几天就当“汉奸”了?但表弟赴日本6年,在那里生活的时间不短了,他一直这么说。这就令我意识到,也许应该修正修正我心中的“日本”形象了:从原来的“日本东西好,但人可恶”,转变为“日本好,可亲近”。
两个月前,我外甥也去了日本。去之前,他也是怀着一种既反感日本、又想接触日本的心态,心里也担忧到日本后遇到什么不好的事。很快,他打来电话说,日本的物质生活很好,公司里的日本同事对他也非常好。表弟在东京,外甥在大阪,两位亲戚去日本后都修正了自己心中原有的“日本观”。这必然影响到国内的我:日本不完全是我们所想象的那样;要想改变心态和看法,只有多了解、多交流。
虽然行动不便,但我也希望此生能有机会亲赴日本,体验一下表弟和外甥所说的“好”。我今年38岁了,瘫痪后,我一共只出过3次家门,一次是1995年洪灾时我去了异乡,第二次是去城里治病,第三次是最近去沈阳参加我的作品集《想骑大鱼的孩子》出版座谈会。我就是那个想骑大鱼的孩子,我希望骑上理想中的大鱼,到日本去,亲眼看一看,亲身感受一下。
我还想,若是更多的日本青年也能多来中国看看,他们也会修正他们心里的“中国观”的。
日本を“感知”する3つの方法
従弟が日本から电话をくれる度、日本について话し始めると、往々にして物质的に豊かであるというだけでなく日本人もいいものだという话になる。彼が日本へ行く前には、歴史などの问题があるため、私もそうなのだが、日本に対して一种の敌意を抱いていたように覚えている。しかし、今や彼の心境は変わってしまったようで、现在の日本と往时の军国主义日本とは区别して见ているようだ。だが、ずっと中国にいる私は、依然として何ら変わっていない。
私は沈阳の田舎に住む一身体障害者で、9歳でリウマチを患い、18歳で半身不随に陥った。2006年、辽宁省作家协会が沈阳市の委员会に働きかけてくれ、私は人工の双寛骨関节と交换する治疗を无料で受けさせてもらった。お阴で多少は歩けるまでに回复した。私は基本的に远方へは出かけないし、住んでいる村を离れたこともない。それでは、私が心に描く日本とは、どのようなものだろうか。
私は三通りの方法で日本を“感知”する。まずは、歴史を通じてである。甲午の海戦から抗日戦争の胜利まで、半世纪にも亘る対中侵略の歴史である。沈阳は「9.18」の屈辱を受けた地であり、日本の侵略者はかつてこの土地で细菌兵器を狂ったように放射していた。私の村でも数人がコレラで亡くなった。汉方医だった母方の祖父を始め私の亲戚からも被害者が出た。
次に、文学作品を通じてである。世界一の长编小说『源氏物语』から芥川竜之介の『罗生门』まで、小林多喜二の『蟹工船』、川端康成の『雪国』、そして现代の映画やテレビ―『君よ愤怒の河を渡れ』、『人间の证明』、『燃えろアタック』、『赤い疑惑』、『一休さん』など。
日本を理解する三番目の方法は、生活の中で目にしない日はない日本の电器や自动车など、そしてメディアを通じて见る日本の右翼势力の一挙一动を通じてである。この3つのルートから私が得た日本の印象はというと、次のようなものである。日本の国花である桜は美しく、日本人は美を爱する民族であるということ。日本の制品は精致であり、日本人はよく学び向上心のある民族であるということ。日本人は繊细であり、国民全体の资质が比较的高い民族であるということである。私は日本文学が好きだが、日本の*の右翼倾化はいただけない。戦争の歴史は私达にとってひとつの伤痕であり、日本の右翼はそれをいちいち痛撃してくる。
中国文化と类縁関系にある日本は、私の心の中では复雑な存在である。
私の村にも日本の侵略者が残していった孤児がいて、私の従弟の妻の祖母もそうだった。そして、まさにこうした関系から、従弟は日本へ行ったのだった。彼が途切れ途切れによこす返信から得られる情报はというと、日本とは、中国国内にいて完全に想像し切れるものでは决してないということである。鉴真和尚が日本に渡ったり阿倍仲麻吕が遣唐使になったりして结んだ情谊は、现代の日本でも今なお続いているということである。
従弟は、こんな话をしてくれたこともある。彼がボランティアである日本の老人を看护に行くと、去り际にその老人は彼の手を引いて忍び泣きをした。その老人は若い顷に海军におり、自ら中国人を杀したことがあるのに、今こうして中国人が面倒を见てくれるとは、と深く*したのだそうだ。この话は私をとても感动させるものだった。
しかし、従弟によると、日本の若者とつき合っていて军国主义による侵略の歴史という*が日本の若者にはよくわかっていないようだという。日本の教科书では、あるものは歴史を歪曲しており、あるものはそのあたりの歴史に触れていない。
最初に従弟が日本のあれこれを好きだと言った时、私は「日本に行ったら、数日でもう売国奴かい?」などと冗谈を言ったものだが、彼が日本に行って6年にもなり、过ごした时间も短くはないが、彼はずっとこのように言うのだ。もしかしたら、私が心に描いている「日本」の印象を修正すべきなのかもしれない、とそこで気づいた。従来の「日本のモノはよいが、ヒトは憎むべき存在だ」というのを「日本はいい、亲しむべきだ」に変えるべきかもしれないと。
2ヶ月前、私の甥も日本に行った。行く前は、彼も一种の反感と日本に触れてみたいという思いを抱いており、日本に行ったらどんな灾难に遭うことかと心のうちでは心配していた。程なく电话をくれた彼は、日本での暮らしは物质的にも恵まれているし、会社の日本人同僚もよくしてくれると话していた。従弟は东京で、甥は大阪で、2人の亲戚が2人とも、日本に行った后に自分の思い描いていた“日本観”を修正したのだ。国内にいる私にももちろん影响を与えた。日本とは、私たちが想像しきれるものではないのだ。気持ちや见方を切り换えて、より理解し、より交流せねばならない。
行动は不便だが、私も生きているうちに日本へ行く机会があったらと望んでいる。従弟や甥の言う「良さ」を体験してみたい。私は今年で38歳になるが、半身不随になってから三度しか家を出たことがない。最初は1995年の大洪水で异郷に避难した时、二度目は治疗のため都会に行った时、そして三度目は最近のことで、私の作品集『大鱼に乗りたがる子供』の出版座谈会のため沈阳へ行った时である。私はさながら大鱼に乗りたがる子供のように、理想に描く大鱼に乗って日本へ行き、自らの目で见て体感してみたい。
また、より多くの日本の若者が中国を见に来て、彼らも、その心に描いている“中国観”を修正してくれるといいなとも思う。